「憧れ」だった海外移住、2011年の東日本大震災をきっかけに「現実」に

水田真梨
2.11の東日本大震災で感じた「死」の恐怖をきっかけに憧れだった海外移住を現実にしました。今ではオーストラリアでの生活が私の日常です。

3.11の東日本大震災で感じた「今日死んでしまうかもしれない」との恐怖から、人生の意義を考え直すようになり、それまでただの憧れだった海外への移住に踏み切りました。

英語力やキャリア、治安などの不安もありましたが、周りの人に支えられ、南半球オーストラリアへ。

あの震災がなかったら、海外で暮らすという夢を叶えることはなかったかもしれません。

3.11で感じた「死」の恐怖

間もなく30歳、女性、東京で転職活動中。
30歳前後の女性が直面する「出産は? 今後のキャリアの予定は?」という質問に生きにくさを感じながら、同時に特別なスキルもない平凡な自分をほんの少し恨みもして、「いつか、もっと歳をとったらでいいから、海外で好きな仕事をして暮らす」ことを夢見て心を慰めていました。

今はとにかく少しでも好条件の転職先を決めることが最優先、日々の生活のためには非現実的な願いは諦めることが正しいはず、と自分に言い聞かせながら。

忘れもしない2011年3月11日の午後、私は都心のビルの地下2階に友人と一緒にいました。
足元から突き上げるような激しい揺れに辺りはパニックになり、ニュースで見た数カ月前のニュージーランドで地震でビルが倒壊する映像が脳裏にフラッシュバック。

「ああ、ここで瓦礫の下敷きになって死ぬのかもしれない」と妙に冷静に考えながら、手荷物を掴んで混み合う階段を駆け上がり、外で友人と合流して初めて、自分の手が震えていることに気づきました。

その時の地震は、それまでに自分が経験したどの地震よりも大きく、ただならぬ予感がしていたのです。

強い余震が続き、その場で都内の家族に電話をするもすぐには繋がらず、不安は高まるばかり。
友人と共に、緊急避難場所に指定されている最寄りの大きな公園へ走って向かいました。

余震が収まるまでのつもりで気づけば数時間を公園で過ごし、当時持っていた携帯電話のワンセグでテレビのニュース番組にアクセスすると、目に飛び込んできたものは東北地方沿岸部の津波の映像でした。
見たこともない巨大な波が陸上の人も家もさらって全てを押し流していく光景に、一瞬息ができなくなったことを、6年以上たった今も覚えています。

その後自宅には帰れたものの、余震は何日も続き、消費者の買いだめによりスーパーマーケットの水や食料品、トイレットペーパーがあった棚は空っぽになりました。

原子力発電所の危機が報じられ、余震のたびに津波の再来も警告され、海外の報道機関は日本に滞在中の外国人に出国を呼びかけていましたが、逆にそれらの報道はデマだとの報道も流れ、何が真実か分からないまま不安な気持ちは大きくなるばかり。
都内は電力消費量を抑えるためのに一部地域で計画停電が実施され、真っ暗で寒い部屋の中で、西日本に実家がある友人たちが余震を避け東日本を離れた、という連絡のメールを読みました。

人生は有限…このままで良い?

東京の他に行く場所もなく子供もいなかった私は、「大丈夫、きっと大丈夫」と根拠もなく自分に言い聞かせるだけの毎日。
地下鉄に乗っていると、余震が起こるたびに乗客の携帯電話から一斉に警告音が鳴り響き、電車が一時停止します。

初めの頃は緊張感が走っていた車内も、次第に「また余震か」という空気に変わっていきました。
それでも慣れることができなかった私は、次第に疎外感すら覚えるようになり、夜は余震で熟睡することもできず、震災や津波関連のニュースを見ては呼吸困難寸前になる日々に疲弊していきました。

子供を連れて九州に避難した友人から「こちらは地震もないから、一度休憩しに来てみない?」と誘われたのは、私の精神的な疲れがピークに達した頃。
東京は大震災などなかったかのように、地震前の日常に戻りつつあるように見えましたが、私の気持ちは2011年3月11日を境に大きく変化しつつありました。

紛争や疫病とも無縁の平和な日本で、明日が来ないかもしれないなどと一度も考えたことのなかった私の中に、人生は有限なのだという思いが強く芽生え、「このままでいいのか?」と、限りある時間をどう使うのが良いか考え始めていました。

ただ、そういった話題を周りの人に話しても理解を得られず、歯がゆい思いをしていた時に、何気なく眺めていたSNSで海外に移住した人の話を読んで強く惹かれ、似たような経験談を探しては読み漁りました。
以前から憧れていた「海外生活」という希望にすがることで日常を忘れるように、海外への移住情報をインターネットで見つけてはブックマークを増やす日々でした。

九州へ向かう飛行機から雲を見ながら考えていたのは、「いつか海外で暮らす」というぼんやりした自分の夢。

「いつか」って、いつ?

その問いをかき消すように、海外に移り住むために必要な英語力もない、そんなに若いわけでもなく、潤沢な資金があるわけでもない、かといって現地で働ける特別なスキルもない、女性単身で渡航するなんて危険かもしれない、だから移住なんてできるわけない、と否定的な要素を数え上げていました。

九州の空港から友人宅に到着すると、温かい歓迎と「ずっと怖かったでしょう」という友人の言葉に泣き出しそうになり、自分が思っていた以上に気疲れしていることを知りました。
地震の前の日常には戻れないと感じていることや、海外へ行きたい気持ちがあること、けれども自信も語学力も足りなくて不安であることなどを吐き出すように話しました。

友人は頷きながら私の迷いをひとしきり聞いた後、「でも、本当はもう心は決まっているんでしょう?」と優しくほほえみ、彼女も九州に移り住むのにたくさんのことを考えたと言って、「あなたが自分の行きたい道を進むことが、周りの人を否定することにはならないから」と私の背中を押してくれました。

可能性を狭めていたのは「自分自身」

東京に戻り、海外に行こうと思っていることを家族に告げると、両親や祖父母は私の気持ちを肯定し、「もし今後日本が地震で住めなくなったとしても、あなたが海外にいれば私たちにとっても拠点ができて良いわ」とポジティブな意見で私を拍子抜けさせました。

おそらく、「移住なんてできない」と決めつけて可能性を狭めていたのは他ならぬ私自身だったのです。

新しい環境に踏み出すことを恐れるあまり、希望を押し殺し、自分の夢を諦めさせようとしていたのは自分だったのだと気づきました。
年齢やスキルを理由にしていたことも、勇気がないことへの言い訳だったのかもしれません。

そう思い至ってからは、可能な限りの情報を集め、移住への準備を進める毎日が始まりました。

気候やビザの点から移住先の国をオーストラリアと定め、無知から生じる不安を安心に塗り替えるべく、自分で調べてもどうしても分からないことはSNSでつながった人に情報をもらい、最終的な判断のために観光ビザで数週間ほど下見に訪れました。

オーストラリアでの暮らしや豊かな自然に触れ、それまで見たこともないほど美しい海を眺めながら「きっと大丈夫」というポジティブな確信を得た時、地震の後に自分に言い聞かせていた「きっと大丈夫」のネガティブな気持ちとの違いに驚きました。

自分が本当に願う方向に向かっていることで、人はこんなにも明るく希望に満ちた気持ちになれるのだと。
語学力やスキルの状態は何も変わっていないにも関わらず。

あれから数年。

私は今もオーストラリアで暮らしています。
東日本大震災の前には単なる「憧れ」に過ぎなかった海外生活が、今では「現実」であり日常です。
外国で暮らすという願いを現実のものとして実践している今、次なる目標は、本当にやりたい仕事だけに絞って食べていくこと。

あの頃、災害という危機により人生が有限だと強く考えさせられたことが、今の私の生活を作り、夢を叶えることへのポジティブな気持ちを育ててくれました。

そのおかげで、自分の心を不自由にさせていたのは年齢でもキャリアでも性別でも社会でもなく、自分自身の思い込みだったと気づくことができ、自分の人生が豊かになったように感じています。
あの時、躊躇していた自分に今なら「好きなこと、本当にやりたいことなら、想像以上に頑張れるから心配いらないよ」と言ってあげたいです。

人間はできないこと・やらないことへの言い訳を用意してしまいがち。
そんな時、少し勇気を出すだけで世界が広がり、楽しく生きやすくなるということを、どうか思い出してみてください。